NHKスペシャル『きのこ雲の下で何が起きていたのか』。
原爆投下3時間後、爆心地から2キロのところにある「御幸橋」での上で撮影された2枚の写真。
その写真からその時に何が起こっていたのかを追っていました。
最新映像技術を駆使したという写真の人物が動き出す映像。
衝撃的でした。
私は昭和39年生まれ。
それでも小学生くらいまでは戦後色がまだまだ残っていたように感じます。
近所には爆弾池。
祖父の家の庭の防空壕跡。
横井さんに、小野田さん。
少年ジャンプの「はだしのゲン」に戦記物マンガは多数。
しかし、私の父親でさえ終戦時は小学生。
空襲の話など聞いていましたが、それよりも昭和東南海地震・三河地震の方が怖かったなんて言ってました。
やはり当時のことはこのような番組や書籍で知るしかありません。
戦後70年で当時を知る人も今が最後。
このような番組をもっと残してもらいたいです。
本当は子供たちに見て欲しかったのですが、願い叶わず。
二人ともパソコンしてました・・・。
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2015-08-06 23:51
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石段に焼き写ったカラダなんてのもありましたよね
凄惨な出来事は忘れてはいけないです
平々凡々とした日々こそ有り難いものであるのも忘れてはいけないですね
by ranran (2015-08-07 08:01)
ranranさん
我々が一番よい時に生まれた日本人世代かもしれませんね。
原爆資料館に入ったこと無いので、行きたいんですがなかなか・・・。
by tsun (2015-08-07 17:55)
はだしのゲンは少年ジャンプだったんですか。
中学生の頃、図書室にあって皆競って読みました。
リアルな戦争や人間の死をストレートに伝えることも
人間にとって大事なんじゃないかと最近思います。
学生の頃受けたショックや強い印象はずっと残りますよね~
by 昆野誠吾 (2015-08-07 18:36)
高度経済成長期の頃ですよね
人類は60年ごとに戦争を繰り返してきた歴史がありますが、なんだかきな臭くなってきたの感じます
by よいこ (2015-08-07 19:55)
戦時中に父が学徒動員で半田市内の中島飛行機での勤労奉仕を終え、帰路に就いたときに硫黄島から飛んできた米軍機(P-51D)に機銃掃射された際に落としていった薬莢がながらく実家にありました。
by nd502 (2015-08-07 20:46)
各教室には、はだしのゲンが普通においてました。みんな読んでいたよ。
父は樺太で生まれて、終戦で北海道に渡った人。
当時まだ赤ちゃんだったみたいですが。
私が小さかった頃もまだまだソ連のことが怖かったですよ。
戦闘機に乗ったソ連の人が亡命してきたときも、最初わからないから、大人たちが怖がっているのを見ていてほんと怖かった。
by リュカ (2015-08-07 20:47)
昆野誠吾さん
今では「はだしのゲン」も学校の図書から、無くすの無くさないのと問題になってましたね。
これと映画『火垂るの墓』は子供たちに観てもらいたいですね。
by tsun (2015-08-08 00:59)
よいこさん
特に昭和50年代は光り輝いていました。
この先なんの不安もなかった。
もう、今は不安だらけです。
by tsun (2015-08-08 01:04)
nd502さん
弾丸とともに薬莢もバラバラ落ちてきて、怖い思いされたんでしょうね。
当時は不発弾がよく出てきたり、まだ戦争も身近な感じがしました。
by tsun (2015-08-08 01:15)
リュカさん
リュカさんのおじいちゃん、おばあちゃんも苦労されたんでしょうね。
冷戦時代はソ連機の亡命ってありましたね。
ソ連機の領空侵犯でスクランブル発進。
こちらでは実感の湧かない話でしたが、北海道では身近に感じることだったのでしょうね。
by tsun (2015-08-08 01:20)
8年前に亡くなった僕の祖父は満州から戦争に行ってましたが夜戦が一番怖かったと言ってました。
ああいう話はちゃんと伝えていかないといけないなと思います。
by hide-life (2015-08-09 19:45)
hide-lifeさん
我々はまだ話を聞く機会がありましたが、これからはもう話を聞くことも出来なくなりますね。
戦後80年は体験した人はほとんがいなくなってしまいますね。
by tsun (2015-08-09 22:07)